「現代の日本の小説で、いちばん好きな作品は何ですか?」と聞かれたら、真っ先にこの作品を挙げる。

僕が通っていた高校の現代文の授業で使われていた便覧には、近代から現代まで幅広い作家のプロフィールと、それぞれの作家にまつわるエピソードが掲載されていて、それを眺めるのが好きだった。そのなかで、『スティル・ライフ』も紹介されていた。『スティル・ライフ』という語感のいいタイトルと、「池澤夏樹」という爽やかな響きを持つ名前には、なんとなく惹かれるところがあった。けれど、すぐにその作品を手に取ることはなかった。高校生の僕は、音楽や映画や漫画が好きで、小説を手に取るという習慣を持っていなかったのだ。大学生になり、小説を読むことが習慣になっても、それでもしばらくは、『スティル・ライフ』を手を取らずにいた。それは、食事をするときに好物を最後まで取っておくような動機だったのだと思う。ずっと取っておいた『スティル・ライフ』に、ようやく手を伸ばしたのは、社会に出て数年経ったときのことだった。

池澤夏樹は、小説や海外文学の翻訳などの仕事で広く知られているが、詩の創作から創作活動をスタートした。小説家としてのデビュー作は、1984年に発表された、『夏の朝の成層圏』である。『スティル・ライフ』は、2作目の小説だ。この作品は、中央公論新人賞と芥川賞を受けている。

『スティル・ライフ』の美質は、冒頭の数ページの文章に端的に表れているように思う。端正で詩的な文体こそが、この作品の魅力ではないだろうか。いつも、この作品を読むときは、小説でありながら詩を読んでいるような感覚に満たされる。作中で描かれているのは、主人公の仕事の風景などの日常的なものであるが、そんな風景が文体の力によって、かけがえのないものに思えてくる。この作品を読んだあとは、現実の風景もそれまでとは違って見える気がする。

そんな感覚に触れてほしくて、書店で行われるフェアの選書を依頼されたときには、ラインナップのなかに、『スティル・ライフ』を入れることが多い。

ぜひ手に取ってほしいと思う。

第1回:穂村 弘『ラインマーカーズ』〜歌人・伊波真人に影響を与えた作品【1】〜

(Visited 39 times, 1 visits today)