自分がいま何者なのかを言葉にできない心許なさ、社会の中に身の置きどころがないように感じてしまういたたまれなさ。みなさんはそんな思いを感じたことがありますか? この『サンティトル』のヒロイン・タカメこと高柳芽美は、いままさにそんな思いに苛まれています。
就職も決まらないまま大学を卒業してしまい、明日からはじまる空白の日々を前に途方に暮れているタカメ。囚われた思いからなかなか抜け出せずにいる彼女の背中を押したのは――いや、無理やり引っ張り上げたのは(?)、思いがけず再会した同級生の言葉でした。
2021年に「第一回ステキブンゲイ大賞」優秀賞を受賞し、約1年半の改稿を経てついに刊行される本書。これが単著デビュー作となる一ノ瀬縫さんにお話を伺いました。
いつの間にか誰かの決めた「正解」を信じ、縛られていた自分に気が付きました
――今回の『サンティトル』について、これから読む方へ、内容をお教えいただけますでしょうか。
就活に失敗し、バイトもクビになった崖っぷちの主人公・タカメが、小学校の同級生・ナルセと再会。ナルセが友達と開発したアプリ(「お金はあるが忙しい人」と「時間だけはある暇人」のマッチング)の仕事に関わり、様々な人の人生に触れることで、タカメ自身も変わっていくという物語です。天才プログラマーの作二朗さん、シングルマザーでジム通いが日課のマイペースなレミちゃんなどナルセと働く個性的な面々と、忙しく生きる、でもどこか欠けた様々な事情を抱えた人が登場します。
――この作品が生まれたきっかけを教えていただけますでしょうか。
全く同じ経験というわけではありませんが、私も就職活動をしました。書類選考や面接を受ける中で、この世界には正解のパターンがあり、それに合わせた受け答えや成功体験がないと、自分自身の価値がどこにもないように感じることがありました。
あるいは、本当は答えなどないのに、答えがあるように思わせるような空気感やそのように誘導するノウハウ・情報に溢れた現実にどこか違和感を抱いていました。その後、流されるままに就職をし、一度仕事を変えたのですが、そのとき、就活のときに見ていた世界というのは実は一部であり、世の中にはもっと多くの仕事や働き方、生き方があることを知りました。そして、いつの間にか誰かの決めた「正解」を信じ、縛られていた自分に気が付きました。タカメとナルセの再会後、最初の居酒屋でのシーンをはじめ、作品はこのあたりの想いが元になっています。
「誰も言わないけど本当のこと」を言ってくれる存在
――ご執筆にあたって、苦労されたことや、当初の構想から変わった部分など、また書籍化に際しての改稿で気をつけたことなど、作品制作時のエピソードをお聞かせください。
まず、受賞後の改稿にあたり、中村先生や審査員の方、編集者の方をはじめ大変多くのフィードバックやアドバイスをいただきました。本当にありがとうございました。そのアドバイスをもとに、主にタカメの成長をアプリの事業の成長と絡めて描くことが大きなポイントとなり、そこを描くことでエピソードが追加で膨らんでいきました。
また、物語はタカメの一人称で進んでいくので、最初の原稿では重要な登場人物であるナルセの内面についてあまり触れられていませんでした。改稿時には、レミちゃんなど他のキャラクターの視点からもナルセの内面をもう少し深く表現できるように心がけました。
――どのような方にオススメの作品でしょうか? また、本作の読みどころも教えてください。
不安やモヤモヤでうっかり暗いところに迷い込んでしまいそうになったときに、ふと優しい気持ちになれる、誰かにとってそんな物語になったらいいなと思っています。
作中では、真面目でガリ勉だが生きるのが不器用なタカメと、お調子者で口は悪いが、どこか憎めない性格のナルセのでこぼこコンビのやり取りにも注目してもらえると嬉しいです。タカメにとってナルセは「誰も言わないけど本当のこと」を言ってくれる存在で、ときにその正直さにカチンときたり、その適当さに呆れたりしながらも、なんだかんだ信頼している、そんな関係です。
ときにはタカメの弱さや一生懸命さに共感し、またあるときにはナルセのマイペースな調子にちょっと救われる
――小説を書くうえで、いちばん大切にされていることをお教えください。
自分の中に強く湧く感情があったとき、それがポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、書き留めています。その瞬間に書き留めないと、そのときは強く感じたのに、意外とあとで忘れてしまったり、他の誰でもない自分だけの感情だったのに、言い表せなくなってしまったりすることがあるからです。たった一文とかですが、そこから書き始めると、あっという間に短篇くらいの長さになることがあります(笑)。
また、こだわりというわけではないのですが、机に向かってじっと座り、黙々と書くのがあまり得意ではないので、隙間時間にスマホで書き進むことが多いです。
――最後に読者に向けて、メッセージをお願いします。
『サンティトル』には主人公のタカメのほか、ナルセ、ナルセと共に働くレミちゃんや作二朗さん。そしてアプリを通して依頼をしてくる、様々な事情を抱えた人たちが登場します。決して完璧ではなく、どこか不器用で、けれどどうしようもなく温かい、そんな人々を描きたいと思いました。ときにはタカメの弱さや一生懸命さに共感し、またあるときにはナルセのマイペースな調子にちょっと救われる。読者の皆様にとって、そんなふうに寄り添う作品になれたら嬉しいです。
Q:最近、嬉しかったこと、と言えばなんでしょうか?
「サンティトル」の発売です! あまり実感がなかったのですが、先日見本が届き、手にとってみてようやく「いよいよ発売なのだ」と実感がわいてきました。
それ以外では、最近新しいスニーカーを買ったのですが、とても履き心地が良くてこれはガシガシ履けるな、と大満足なことです(笑)。足の形なのか、合う靴を見つけるのが難しいタイプなので、これは嬉しかったです。
Q:ご自身は、どんな小説家だと思われますか? どんな小説家になりたいとお考えですか?
読んだあと、たとえほんの少しでも、誰かが前に進む力になる、そういう作品を書きたいと思っています。
また、『サンティトル』のタカメは真面目なキャラですが、書いているこちら側もどこへ行くかわからないような、ちょっと暴走気味&脱線したような主人公も、今後書いてみたいです。
あと、短篇も書くことが多いので、いつか短篇集も出してみたいです。
Q:おすすめの本を教えてください!
■『さがしもの』角田光代(新潮社)
本をめぐる九つのお話が収録されている作品で、その四番目の「彼と私の本棚」が特に心に残っています。高校生くらいのときに初めて読んだのですが、角田光代さんのこの作品に出会い、私は小説を書きたいと思いました。読んだ後、きっと、もっと本が好きになります。
■『体は全部知っている』吉本ばなな(文藝春秋)
こちらも短篇集です。吉本ばななさんを初めて知ったのは、国語の教科書で「みどりのゆび」という作品に出会ったのがきっかけでした。「みどりのゆび」のほか、中でも好きなのが「小さな魚」という、小さな魚のようなかたちをしたできものをめぐるお話です。読んだら誰でも優しい気持ちになれずにはいられない、そんな物語です。
■『水に立つ人』香月夕花(文藝春秋)
大切な人を失い、人知れず痛みや傷を背負って生きている人たちへの願いについて描かれている作品だと感じました。文章が流れるように美しく、私もこんな素敵な文章を書いてみたい、と何度も読み返しています。とても好きな作品なので、母の誕生日にも贈りました。
一ノ瀬縫さんデビュー作『サンティトル』
発売:2022年11月30日 価格:1,650円(税込)
著者プロフィール
一ノ瀬縫(イチノセ・ヌイ)
東京都出身。2021 年、本作にて「第一回ステキブンゲイ大賞」優秀賞を受賞(受賞時タイトル「正直な空白」)。本年、『5分後に衝撃のどんでん返し』への短編「彼女は」の収録を経て、本作で単著デビューを果たす。なお本作は年内スタート予定でのコミカライズ、来年2月に舞台演劇としての上演が決定している。