幸せになりたいという想いは、きっと誰もが持っている願いでしょう。
求める幸せの形は人それぞれに違っていても、願いが叶って気持ちが満ち足りたときの、心の安寧を誰もが求めているものだと思います。本作『幸福の森』の主人公・卓也の求める幸せは「小説家になること」でした。
すべてを投げ打って小説家への夢を追いかけていたはずの卓也は、それがなかなか叶わないことに焦り、苛立ち、いつの間にかその夢に追い立てられてしまっていたのかもしれません。そして――それが「魔」を呼び寄せてしまった。
2022年に「第二回ステキブンゲイ大賞」において準大賞を受賞した本作は、深い森の奥の屋敷を舞台にそこで待っていた怪異、呼び覚まされる記憶が、まるで森の木々の伸ばす枝葉のように、じわじわと卓也を絡め取っていくさまを描いた超自然的ホラーです。約2年の改稿を経て遂に刊行された本作について、著者の千年砂漠さんにお話を伺ってみました。
木々しか見えない代わり映えしない景色が続く中でふと、この山林から永久に出られないのではないかと恐怖を覚えた
――今回の『幸福の森』について、これから読む方へ、どのような作品かをお教えいただけますでしょうか。
小説家志望の青年が、敬愛する幻想作家の幼い養女の家庭教師を務めることになったのをきっかけに、小説家への道が開かれてきますが、悪夢や不穏な幻想を見るようになります。
そんな中、知り合った雑誌記者から幻想作家の周辺で起こる奇妙な出来事などを聞かされ、家庭教師を辞めるように忠告されますが、作家としての成功を目前にした青年は忠告を聞き入れられず、ついには封印されていた自己の暗い記憶まで甦らせてしまうことに……。
人の幸せとは、第三者から見れば不幸に見えるものもあるかもしれません。
得た幸せがその先の人生をも幸せにしてくれるとは限りません。
それでも人は『自分の幸せ』を願って止まないのです。
人が持つエゴや業の恐ろしさを感じていただければ幸いです。
――この作品が生まれたのはどんなきっかけだったのでしょうか。
何年かの間限界集落の山奥に住んでいたことがありましたが、その時、深い山林の中のガードレールもない車一台分の幅しかない道を通っていて、対向車にも歩く人にも全く出会わず、木々しか見えない代わり映えしない景色が続く中でふと、この山林から永久に出られないのではないかと恐怖を覚えたことがありました。
同じ頃、大きな街のショッピングセンターでの買い物途中に疲れて店内のベンチで休んでいた時、目の前を通り過ぎていく多くの人々を眺めながら、その名も知らぬ交流もない人達と自分が同じ世界にいる実感が湧かないのに気づきました。
奇妙な孤独感に俯いた私の目に映ったのは、抱えていた買い物袋の中の葡萄。
世の中はこの葡萄のように、『個々の世界』が触れ合っている点だけで成り立っている集合体なのではないのだろうか。
そんな考えが浮かびました。
この二つの経験が合わさって、本作が生まれました。
ある日突然、覚悟もなく、その狂気と正面から向き合うことになってしまったら。そんなもしものお話です
――ご執筆にあたって、苦労されたことや、当初の構想から変わった部分など、なにかエピソードがありましたらお聞かせください。
受賞作では青年が『自分の幸せ』を手に入れたところで終わりでしたが、出版に際してその後の話を追加しました。
話を追加したことで、青年が幸せを手に入れてめでたしめでたし、で終わるより、さらにホラー味が増しました。
また、担当編集者の方から登場人物の心理、言動に揺らぎや不鮮明さがあること、時系列が分かり難いことをご指摘いただき、それについてのご教示を頂きながら約2年の時間をかけて改稿しました。
その分物語に説得力ができ、読みやすくなったと思います。
改稿作業で情けなかったのは、誤字脱字の多さでした。それに言葉の誤用もあり、担当編集の方、校正の方には過大なご迷惑をおかけしたことを申し訳なく思っています。
――本作は、特にどのような方にオススメの作品でしょうか? 読みどころなども含めて教えてください。
本作はホラー小説が苦手という方にも読みやすい物語であると思います。
派手なスプラッター場面など皆無の、小説家志望の青年を中心にして静かに進む物語です。
話の流れの中に様々な奇妙さはあるものの、作品の根幹を成すものは『人間の自意識と無意識』であり、例外なく、誰もが持っているものです。
しかし、その中に無自覚な狂気が紛れていたとしたら。
ある日突然、覚悟もなく、その狂気と正面から向き合うことになってしまったら。
そんなもしものお話です。
時と状況が揃えば、もしかしたら自分に潜んでいる狂気が表に出てくるかもしれない。
そんな恐怖をご想像ください。
インスピレーションを感じて構成した物語の大筋を大事にして、話の流れを変に曲げないよう気をつけています
――小説を書くうえで、ご自身にとっていちばん大切にしていることや拘っていることをお教えください。
作品が持つ世界観や雰囲気を構築できる言葉選びを心がけています。
インスピレーションを感じて構成した物語の大筋を大事にして、話の流れを変に曲げないよう気をつけています。
また、登場人物の心理、喜怒哀楽をできるだけ直接的な言葉でなく表せる表現を探すようにしています。
そのためには、俳句の勉強がとても役立っています。五七五の限られた文字数での表現を考える中で、言葉一つが持つ意味やイメージを良く理解することが大事であると学びました。
未熟者故、自分にしか書けない文章スタイルを、未だ模索中です。
――最後に読者に向けて、メッセージをお願いします。
本作の主となる場所、主人公を囲い込むのは『森』ですが、これは『うっそうとした木々の生えている所』と読むばかりでなく、読者ご自身が今いる場所としても読むことができます。
自分を取り囲むものが木々の代わりに『煩わしい友人関係』であったり、『不満のある会社』であったり、『不仲な家族』であったり。
逃れたくても容易に逃れられない環境、それが本作の『森』なのです。
『森』の不気味さをどうぞご堪能下さい。
Q:最近、嬉しかったこと、と言えばなんでしょうか?
私は高校時代剣道部に所属し、活動していました。今回の本作の出版をその剣道部の友人の一人に伝えると、もう何十年と連絡を取っていなかった剣道部の先輩、同輩、後輩から続々と連絡が入り、お祝いの言葉と本の予約を頂きました。
さらに、長く連絡できていなかった親友とも連絡がつき、青春期を共に過した仲間の、長い時を隔てても変わらぬ友情が、涙が出るほど嬉しかったです。
また、現在の勤め先の同僚、投稿サイトで仲良くしてくださっている方々、去年漫画家デビューを果たした長女の知人の方からもお祝いの言葉や本の予約を頂き、とても嬉しく思いました。
人との繋がりに深く感謝しています。
Q:ご自身はどんな小説家だと思われますか?
ひと言で申し上げるなら『諦めの悪い小説家』です。
実は私は還暦を超えている歳の人間です。
十五歳から小説を書き始め、毎年様々な賞に応募してきましたが、二次選考、三次選考落ちが常で、最高でも最終選考止まり。結果を出せないまま四十五年が過ぎました。
それでも『どこかに私の作品を拾ってくれる賞がある』と信じて書き続け、「第二回ステキブンゲイ大賞」で準大賞という栄誉を頂きました。
本作の出版は、自分を信じて諦めなかった、その粘りへ頂いたご褒美だと思っています。
なので、これからも粘り強く書き続ける作家になりたいと願っています。
Q:おすすめの本を教えてください!
物語を書く上で、自分の個性を出したいと常に思っていますが、まだ出来ているとは思えません。
それが最高の形で成し遂げられていると私が思っている本、三冊をご紹介します。
■『魔性の子』小野不由美(新潮社)
ある高校で起きた不可思議な事柄を皮切りに、物静かな優等生の少年の周りで次々と理不尽に思える不幸が起きる。
彼には欠片も悪意がないにも関わらず、彼に関わると死に至る。それは呪いのように急速に、残虐性を伴って被害を拡大させていく。
人の形をしているけれど、どこか異質な少年と彼の周りに見え隠れする異形の者たち。
彼は果たして本当に人間なのか。
正体が不明な者の不気味さが十二分に書き込まれた秀逸なホラー小説です。
読みやすく、それでいて不穏な空気感を全く損なうことのない文章で、ホラー小説のお手本のような作品です。
■『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』西尾維新(講談社)
絶海の孤島に住む財閥令嬢が、科学・絵画・料理・占術・工学の各分野の「天才」女性五人を招待した。そこで首切りの殺人事件が起る。
招待された工学の天才美少女、「青色サヴァン」こと玖渚友とその友人、「戯言遣い」いーちゃんが犯人と犯行の謎解きに迫るミステリー小説。
初めて読んだとき衝撃を受けました。
物語のミステリーとその種明かしに、ではなく、登場人物のキャラクターと作品の文体に、です。
この作品を書いた作者の圧倒的な才能に対して「これが天才というものか」と、それ以外の感想が出てきませんでした。
他の誰にも書けない、特異な才能が著した本です。
■『山頭火句集』種田山頭火・著 村上護・編(筑摩書房)
生涯を放浪の旅に身を置いた、自由律俳句の俳人、種田山頭火の作品集。
没後八十四年になるが、残した句は定型句では表せない深い味わいがあり、現代の人間の心の淋しさにも通ずることもあって未だ人気が衰えない。
山頭火氏が最期を迎えた『一草庵』は私の住む県の松山市にあるためか、身近な人に思えます。
作者が山頭火氏と知らずとも、一句くらいは誰しも耳にしたことがあるのではないでしょうか。
氏の句は時に魂を揺さぶるほど強烈で、短い言葉故にいつまでも心に残るのです。
千年砂漠さんデビュー作『幸福の森』
発売:2024年07月31日 価格:1,980円(税込)
著者プロフィール
千年砂漠(センネンサバク)
1962年生まれ。愛媛県在住。ウェブ等で執筆活動を続け、2022年に本作にて「第二回ステキブンゲイ大賞」準大賞を受賞し、改稿を経た本書でデビュー。